友「俺もなにか始めたいとは思ってるんだけど、その先にうまくいく保証がないと動けないんだよね。こわいというか、損するのがイヤというか……」
2025年6月。
出版活動のために地元の田原(愛知)に帰省したときのことです。
高校時代の野球部メンバーと久しぶりに飲みに行きました。
そこでそのうちの1人が、上記のような悩みを打ち明けてくれたんです。
要するに、「ある程度の成功が保証されていないと、未知のことに踏み出せない」ということです。
それを聞いたとき、「あぁ、それ俺も悩んでたやつだ……」って思ったんですよね。
で、「だから、それについて翔太の考えをブログに書いてよ」と言われました。
だから今、書いてます。
頼まれてから2ヶ月くらい経ったけど、書いてます。
というのもね、めちゃくちゃ考えたんですよ。
「成功が約束されてる挑戦ってあんのか?」って。
ない!
思いつかない!!
まっっっっっったく! 思いつかない!!!
しまいには「もういいや、2ヶ月半経ったし忘れてらぁ」と思い、なかったことにしようとしましたもん。
(でも書くって言っちゃったしなぁ……)
と、炭次郎並みの誠実さを持ち合わせている僕は、結局書いてます。
さて、結論から言うと、
挑戦に約束されているものは、あります。
ただ、それはたぶん、
その友人が望んだ答えではありません。
本記事では、
「やりたいことはあるけど、失敗するのが怖い……」
「いまの生活に、人生に、漠然とした後悔がある……」
「他人の目ばかり気にして、自分らしく生きられない……」
こんな悩みを持っている方には、なにかしらお役に立てるのではないかと思っています。
ただ、「ありのままの自分を受け入れよう」みたいな優しいものではないので、何卒ご了承くださいませ。
挑戦に約束されているものは、学びのみ
話に入る前に、「挑戦」の言葉の定義を合わせておきましょうか。
一応、コトバンクで調べると、こんな感じらしいです。(※)
- 戦いや試合をいどむこと。
- 困難な物事や新しい記録などに立ち向かうこと。
戦いや試合に挑む人は母数的に少ないと思うので、この記事では②をお借りして、
「自分にとって困難なことや、新しい物事に取り組むこと」
を「挑戦」の定義にしますね。
明日の試合で1本ヒットを打つのか、
夏の大会で1本ヒットを打つのか、
甲子園で1本ヒットを打つのか、
プロ野球で1本ヒットを打つのか、
メジャーリーグで1本ヒットを打つのか。
そういう程度の差は気にしません。
〝その人にとって〟困難なことや、新たなことならOKにしましょう。
と、長々と前提認識を合わせたうえで、挑戦に約束されているものはなんなのか?
それは「学び」です。
「挑戦に約束されているものは、学びのみ」
もしかすると、僕が今回の出版活動で得た1番の学びは、これかもしれません。
というのもね、今回の「原稿執筆(2024.07)~出版(2025.07)」まで、
とにかく失敗と成功の連続だったんですよ。
いや、正確には「膨大な失敗の中に、ほんのちょっぴり成功が混じっている」というのが正しいです。
失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、成、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、成、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、成、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、成、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、失、成 ……………etc。
みたいな感じ。
ウォーリーを探せかってレベルですよね。
だって考えてもみてくださいよ。
まず原稿と企画書を150社以上に送って、そのうちの1社から採用をいただく。
これ、まず150分の1ですよね。
もちろん、外した149発もテキトーに五月雨打ちしているわけではありません。
「原稿の1枚目、いや1文目をもっとインパクトのある始まりにしたほうがいいんじゃないのか?」
「企画書の概要欄、結論ファーストで論理的に書いたほうがいいんじゃないのか?」
「販売活動の内容が、無名作家にしては怠慢すぎるんじゃないのか?」
「そもそもこの本のどういうところが、社会にどんな影響をもたらすのか?」
とにかく試行錯誤を繰り返しました。
そしたら少しずつ自動返信から手書き返信に切り替わり、なかにはアドバイスをしてくださる出版社さんもいました。
そしてなんとか、150社以上送ったところで採用が決まったんですよね。
出版が決まってからも、うまくいかないことの連続でした。
Webの文章に慣れすぎて、無意識に改行が多くなったり、
本の最初と最後では雰囲気が全然違ってたり、
そもそも二十歳の僕が書いた文章だから、下手くそな部分もあったり、
それらを直してたら、修正箇所が2000件以上にも膨れ上がったり……。
編集者の方にはものすごく苦労をかけたと思います。
それから2025.06-07に行った、地元・田原市(愛知県)での出版活動。
LINEオープンチャットを作って主催するのも初めて、
学校で授業するのも初めて、
市長さんに会うのも初めて、
お店にチラシを置いてもらうのも初めて、
地元、出版社、書店、と大きな組織との連携を図るのも初めて。
もう初めて尽くしの1ヶ月半で、失敗とか成功とか、考える暇もありませんでした。
そんでもって極めつけは、7月10日に地元で行った手売りイベント。
ほんとにたくさんの方に協力・応援いただき、結果的には用意していた350冊、すべて完売。
「いやぁ~、どうなることかと思ったけどなんとかうまくいったね~」
と、成功の安堵で一件落着感を出していたら、
「書店で売れないと(出版社への)返品率が上がる。
ほんとに広めたいなら書店で買ってもらうことが1番大事。
自分で売るのは楽しいけど、自己満足」
という敏腕編集者の記事・動画を複数目の当たりにし、
(バカか俺は……)と的外れな行動をしていた自分に絶望しました……。
と、こんな感じで……。
優しい地元の方は「翔太、よくがんばったね! 大成功じゃん!」と言ってくれますが、
僕から言わせれば、口が滑っても「すべて予定どおり! バッチリうまくいってます!」なんて言えないんですよね。
あなたに伝えたいメッセージ
以上、長々と僕の「こんなことやったんだぜ話」をしましたが……。
冷静に考えると、
これ、ただの〝結果論〟なんですよね。
出版できた「結果(≒成功)」を盾にして、
偉そうにポジショントークしているだけなんですよ。
だって僕はたまたま運よく出版できただけで、
ほんの少し原稿と企画書を送るタイミングがズレてたら、実現できなかったかもしれませんからね。
じゃあ、もし今回、
手売りイベントで1冊も売れず、
授業もどんずべって先生方にキレられ、
チラシが落書きされて全部ゴミ収集車に持ってかれて、
いや、そもそも日本全国どの出版社にも採用されなかったとしたら――
その挑戦は無駄だったのでしょうか?
丸1年かけた時間は、なんの意味もなかったのでしょうか?
僕はそうは思いません。
もし、今あげたすべてのことが起きて、
なにもかもがうまくいかなったとして、
その結果、どれだけの人に迷惑をかけ、嫌われたとしても、
僕の中には「学び」が培われます。
「次は出版初日に書店とコラボしてサイン会をやってみよう!」
「事前に生徒にアンケートを取って、それをもとに授業の構成を考えてみよう!」
「思わず手元に置いておきたくなるような、愛着の湧くチラシにしてみよう!」
「出版社に採用していただけるような原稿・企画書が作れるように、経験者に教えを乞うてみよう!」
こんな風に、仮にすべてがうまくいかなかったとしても、
次の挑戦の成功確率を上げるための「材料」を得ることはできたでしょう。
そしてこの「材料(=学び)」は、誰にも奪われません。
「挑戦に約束されているものは、学びのみ」
冷静に考えてみれば、すぐにわかることでした。
成功が約束された挑戦なんて、この世にありません。
挑戦というのは、「うまくいくか分からないから」挑戦と呼ぶからです。
失敗する確率のほうが高いからこそ怖く、勇気が必要になるのです。
でも、だからこそ。
ひとつだけ、確実に得られる「学び」を大切にし、未来への糧にする。
僕たちにできるのは、それだけなんです。
もちろん、学びを得たからと言って、
次の挑戦が必ずしも成功するわけではありません。
次も失敗して、なんらかの学びを得て。
その次も失敗して、学びを得て。
そしてそのまた次も失敗して、学びを得て。
いつ報われるかは誰にもわかりません。
ただそれでも、僕たちにできることは「挑戦から学ぶ」ことだけ。
失敗からも、成功からも、学ぶ。
いや、もっとそれ以前に、
「とりあえずやってみる」ことだけなんです。
挑戦が報われるまでは、基本、ずっと憂うつだし、
そこらへんで拾ってきた体のいい理屈をつけて、諦めたくなるときもある。
なんの役にも立たない自分を責めたくなる日もあるかもしれません。
でも、打席から降りなければ、
いつか必ずホームランを打てます。
成功とか失敗なんて、しょせんは結果論。
失敗しようが、成功しようが、
地道に学び、挑戦し続ける人が、世界を前に進めていく。
僕はそう信じています。
そしてきっと、そうやって学び続けて行動し続ける人間を、
人は「挑戦者」と呼ぶんだと思います。
口だけにならず、行動で示せるように。
僕もまだまだ、いろんなことに挑戦していこうと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
【商業出版チャレンジで得た学び】シリーズは、いったんここで区切りとします。
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